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母が旅立ちました。 [がんと生きる]

先月、母が亡くなりました。

私が大学4年のときに卵巣がんが見つかり、その時点でⅢCのステージ。
手術で約3キロのガンを摘出し、その後の抗がん剤治療で寛解を得ました。
その後は、普通の生活を送っていました。
経過観察では、血液で腫瘍マーカーを見ていたのですが、異常値にならず
経過観察からも卒業しました。

再発がわかったときに、「あなたの場合は、腫瘍マーカーに現れにくかったですね。」
と、築地のがんセンターの担当医に言われました。
この言葉は、私も一緒に聞いたのですが、
どうしてエコーも併用して経過観察をしてくれなかったのか、と思い出すたびに
重い石が喉につかえるような気持ちになります。

2005年の冬頃からひどい便秘になりましたが、病院の受診を嫌がり
2006年の1月に体調がどうにもならなくなって、やっとがんセンターを受診してくれたときには、
ガンはまた3キロにもなっていて大腸や膀胱にも癒着していたので、
抗がん剤治療後、ガンの摘出手術をして人工肛門、人工膀胱を作ってもらいました。

がんセンターへの入院は、受診時に体がのっぴきならない状態にもかかわらず1ヶ月待ちだったので
近所のクリニックの紹介で、国際医療センターに入院をしました。
そして、1月から10月までの長い入院を経て、退院。

それから、人工肛門、人工膀胱という体を受け入れられない母のうつも始まり、
なんとなく落ち着いてみえた頃、私は結婚して母と離れて暮らすようになりました。

しばらくは、表面上落ち着いていましたが、ガンの再発も見つかって、再度抗がん剤治療をし、
母のうつ病も悪化。前頭側頭型認知症の診断も受けるほどに精神状態は悪化しました。
その時点で、私はすでに生きてはいるけれども変わってしまった母を目の前にして、
もう、母はいないと、元気な頃の母には二度と会えないと、この状態の母が死んでも涙も出ないと
思っていました。

そこから、母は奇跡かという復活をしてくれて家に戻ってきました。
でも、ガンも再発。
このガンは治療はせずに、付き合うことを母も家族も納得して決めました。
母は入院のさみしさはもう嫌だと。

それから2年。
本当におまけの時間でした。

何度も母を失くした気持ちになっていたし、もう二度と旅行に出かけることもないと
思っていたけれど、母は出かけてきてくれて、何度も一緒に旅行もできた。
温泉にも入ってもらえた。
二度と食べられないと思っていた母の手料理も食べられた。
私たちが新しく建てた家にも泊まってもらえた。
母から引き継いだ着物を私が自分で着れるようになったのも見せられた。

母に押さえつけられた部分もあったし、病気になってからは母をいつも心配していたし、
心にいつも再発や精神状態が悪化するのではとか、不安もあったし
私自身が、母のそばにいないという罪悪感もあったけれども。

母に会うたびに何度も何度も「もうダメだろうな」「もう最後だろうな」と思っていたし、
口にも出していたし、母が死ぬことはもう迫っていることと思っていたし、
これだけがんと生きてきた母は、肉体を離れることで、楽になれるとも思っていたし、
思っているし、本当にお疲れ様でした。と、思ってるし。
お通夜でもお葬式でもそんなに泣かず、それよりか来てくれた人へ気を回して
気疲れしたりしていたけれども。

母が死んで次の日から、葬儀まで1週間もあったので、
父と弟夫婦と一緒に猛然と母の不要なものを片付け、
手続きをし、毎日母にお線香をあげに来てくれる誰かとお茶を飲み、お酒を飲み、
和歌山に戻ったら、もう母が死んでから初めての母の日がこの週末にやってくるという。
あっという間な時間の経過にびっくりしています。

母がまだベッドから立ち上がれた4月の最初に
マタニティヨガのWSにかこつけて、実家に1週間帰っていられたし、
母が状態が悪くなってからも、急いで実家に帰って、母の息を引き取る瞬間まで
家族でベッドを囲んで、看させてもらえたし、
ガンもボコボコと体の表面にも出てきていて、
母の栄養も血もみんな吸い取っているようだったので
母が息を引き取ったときは、楽になれてよかったねと本当に思えたし。

小さな後悔はあるけど、それほどに大きな後悔はなく
送らせてくれたのは、やっぱり母の愛でしょうか。

さっき、NHKの私のお気に入りのあさイチが「母ロス」を特集していたので
触発されて、私も吐き出す気持ちになれました。

同情して欲しいわけでも、一緒に悲しんでもらいたいわけでも、解決して欲しいわけでも
まとめて欲しいわけでもなくて、聞いて欲しい気持ちに今、なりました。

大好きな自慢の母が亡くなって、亡くなるってわかっていたからビックリはしてないけども
今、ちょっと母の話しを聞いてもらいたくなったので、どばっと吐き出してみました。
困ったとこも、嫌だなって思うとこもあったけど、やっぱり、私は母が好きだったみたい。

聞いてくれてありがとうございます。
母はそんなに自分の話をしない人で、友達付き合いも上手じゃなくて
私が知ってる母の友達って言える友達は1人しかいなくて、そんな母ですが、
今はたぶん天国へ向かう虹の橋で愛犬ピッチと久しぶりに会えているはずなんです。

お母さん、ありがとうね。産んでもらったこと育ててもらったこと。
お母さんにしてもらったことを、お母さんにむかついたことやされて嫌だったことに上書きして、大事にします。
なかなか、素直にありがとうをたくさん言えてなかったけれども。

そして、今も素直にさみしいと言えませんけども。
なんか、さみしいとか言ったら負けな気がして。
でも、やっぱりさみしいです。

だけども、私は今一人じゃなくて、仕事もあって仲間も友達もいるから
どうぞ、心配はせずにがんから解放されて楽になった自分を楽しんでください。
また、そのうちに私がもういいやってほどこっちで生きたらそっちに行きますね。
またね~。








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さおりん

お悔やみ申し上げます。

もう7年くらい前かな、ヨガに数回参加させていただき、
cobachi母子と私でランチしましたね。

私と沢山会話してくれたお母さん、会話の内容も覚えています。
色々話したけど、お母さんは、私に、
「生きていて、お母さんやれて良かったね」って言ってくれた。

「人工肛門、人工膀胱という体を受け入れられない母なの」
「“うつ”状態が続いていて・・・でも今日は珍しく調子いい方だと思う」
cobachiちゃんが小声で私に教えてくれた。

実は、あの頃は、私も似たような感じで、躁鬱を繰り返す状態。
子宮がなくなったことに対して、
受け入れているようで、受け入れられない、
『とりあえず生きているんだから、仕方がない、むしろ有難い』
って解ってはいるけど、・・・。

私も、最近体調がよろしくない感じだったりですが、
何とか40代を謳歌しています!(?)
あのチビ君(息子)も、中学生。
cobachiちゃん実家の最寄駅の男子中高にご縁があり進学しました。
ここ数か月、頻繁に学校に用事で出向くたびに、
cobachiちゃんの事、お母さんの事、思い出していました。

お母さんに呼んでもらえたのかな、


ブログに記してくれて、ありがとう。
by さおりん (2014-05-09 14:42) 

リマーナすず

cobachiさん、こんにちは!

お母様との思い出を分かち合ってくださって
ありがとうございます。
お母様、壮絶だったのですね。
ご本人もcobachiさんもがんばられたと思います。

今はもう痛くもないし、苦しくもない。
この世でのお役目が終わって晴れ晴れとされているのでは
ないかしら。
それでもさみしいですよね。
しばらくは、どうがんばってもさみしいです。

愛する人を失ったときの
びっくりするくらいの心の痛みは
それだけ大切だった、好きだった、
かけがえのない唯一の人だった、という証ですよね。
宝物だと思います。
お母様の強さはcobachiさんにも
受け継がれていますよ。

またお会いできるのを楽しみにしています。
今度はヨガを教えてね^^
by リマーナすず (2014-05-09 22:21) 

cobachi

さおりんさんへ

ありがとうございます。
そうですよね。あれから、もう7年、8年経ちますね。
あのときはありがとうございました。なつかしい。
母の日記が出てきたら、さおりんさんとランチをしたときのこと
書いてありました。
「わたしもあんなふうな気持ちになれるのかしら」って。
母は、あれからでっかいうつの渦に飲まれましたが
さおりんさんもあの頃、葛藤を抱えていらしてたんですね。
でもでも、今40代を謳歌されているのなら。
私ももうアラフォーです!いろいろあるけどもいろいろあがいてます(笑)
100%健康です!みたいなことって難しいですよね。

息子さんも、もう中学生ですか。
母のこと、私のこと、思い出すきっかけを息子さんがくださったのですね。
なんだかうれしいです。

コメントいただいて本当にありがとうございます。
by cobachi (2014-05-10 23:05) 

cobachi

リマーナすずさんへ

ありがとうございます。
母が息を引き取ったときも葬儀までも葬儀後も
体がしんどかった母が楽になれたことと
私自身も母の心配をもうしなくてもいいこととで
ほっとするような気持ちが強かったのですが、
時間が経ったら、ふいにさみしさが来たりしました。

たぶん、こういう気持ちはくり返しくるのでしょうね。

母の最期の10年は本当に平凡ではなく、壮絶でしたが
その最晩年の2年は家族にとっても幸せな時間でしたので、
やっぱり、すずさんにおっしゃっていただいた通りでした。

亡くなった時のあの状況は映画のワンシーンのようでした。

また、ぜひすずさんにお目にかかりたいです。
ヨガも!帰省されることがありましたら、足を伸ばしていただけたら!
新大阪と難波からうちのすぐ側まで高速バスが直通で出ていますので
バス停までお迎えにあがりますよ~。
by cobachi (2014-05-10 23:15) 

高橋洋子

お母さんのご冥福を祈ります。
文子さんと共有できた時間はとても短くて、後半は手紙と電話のお声だけでした。詳しいことはこのブログで知りましたが、おつらそうな状況に何もしてさしあげられず、最後の穏やかな2年間には救われる思いでした。
私の父はずいぶん前に亡くなりましたが、同じようにストマを付けた最初の頃はやはり慣れずに苦労しました.今はあちらで2人とも苦労話をしながら、娘達のくらしを見守っていることでしょう。

by 高橋洋子 (2014-05-16 00:59) 

cobachi

高橋洋子さま

ありがとうございます。
たびたび母のこと、気遣っていただいてありがとうございました。
こんな感じでお知らせしてすみません。
読んでいただけて、うれしいです。

そうですね。もう今は、母にとって不自由だった体から解放されて
あちらで、にこにこしながら私たちを見ていることを祈るばかりです。

by cobachi (2014-05-19 08:51) 

ひすい

ご無沙汰しています

お母様、旅立たれたのですね

本当にお疲れ様でした、安らかにお眠りください、と思います

cobachiさん、最後に看取ることができてよかったですね!

そして、この2年間も神様からの贈り物ですね


ご報告ありがとうございました

by ひすい (2014-05-23 01:32) 

cobachi

ひすいさん
ありがとうございます。
ふいっと、もう電話することもないんだなとか
思ったり、母からもらったものを見つけたり
母と一緒に行った場所を通りすがったりすると
母のことをしみじみ思い出したりしています。

コメントいただいてありがとうございました。
by cobachi (2014-05-23 19:34) 

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