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母が旅立ちました。 [がんと生きる]

先月、母が亡くなりました。

私が大学4年のときに卵巣がんが見つかり、その時点でⅢCのステージ。
手術で約3キロのガンを摘出し、その後の抗がん剤治療で寛解を得ました。
その後は、普通の生活を送っていました。
経過観察では、血液で腫瘍マーカーを見ていたのですが、異常値にならず
経過観察からも卒業しました。

再発がわかったときに、「あなたの場合は、腫瘍マーカーに現れにくかったですね。」
と、築地のがんセンターの担当医に言われました。
この言葉は、私も一緒に聞いたのですが、
どうしてエコーも併用して経過観察をしてくれなかったのか、と思い出すたびに
重い石が喉につかえるような気持ちになります。

2005年の冬頃からひどい便秘になりましたが、病院の受診を嫌がり
2006年の1月に体調がどうにもならなくなって、やっとがんセンターを受診してくれたときには、
ガンはまた3キロにもなっていて大腸や膀胱にも癒着していたので、
抗がん剤治療後、ガンの摘出手術をして人工肛門、人工膀胱を作ってもらいました。

がんセンターへの入院は、受診時に体がのっぴきならない状態にもかかわらず1ヶ月待ちだったので
近所のクリニックの紹介で、国際医療センターに入院をしました。
そして、1月から10月までの長い入院を経て、退院。

それから、人工肛門、人工膀胱という体を受け入れられない母のうつも始まり、
なんとなく落ち着いてみえた頃、私は結婚して母と離れて暮らすようになりました。

しばらくは、表面上落ち着いていましたが、ガンの再発も見つかって、再度抗がん剤治療をし、
母のうつ病も悪化。前頭側頭型認知症の診断も受けるほどに精神状態は悪化しました。
その時点で、私はすでに生きてはいるけれども変わってしまった母を目の前にして、
もう、母はいないと、元気な頃の母には二度と会えないと、この状態の母が死んでも涙も出ないと
思っていました。

そこから、母は奇跡かという復活をしてくれて家に戻ってきました。
でも、ガンも再発。
このガンは治療はせずに、付き合うことを母も家族も納得して決めました。
母は入院のさみしさはもう嫌だと。

それから2年。
本当におまけの時間でした。

何度も母を失くした気持ちになっていたし、もう二度と旅行に出かけることもないと
思っていたけれど、母は出かけてきてくれて、何度も一緒に旅行もできた。
温泉にも入ってもらえた。
二度と食べられないと思っていた母の手料理も食べられた。
私たちが新しく建てた家にも泊まってもらえた。
母から引き継いだ着物を私が自分で着れるようになったのも見せられた。

母に押さえつけられた部分もあったし、病気になってからは母をいつも心配していたし、
心にいつも再発や精神状態が悪化するのではとか、不安もあったし
私自身が、母のそばにいないという罪悪感もあったけれども。

母に会うたびに何度も何度も「もうダメだろうな」「もう最後だろうな」と思っていたし、
口にも出していたし、母が死ぬことはもう迫っていることと思っていたし、
これだけがんと生きてきた母は、肉体を離れることで、楽になれるとも思っていたし、
思っているし、本当にお疲れ様でした。と、思ってるし。
お通夜でもお葬式でもそんなに泣かず、それよりか来てくれた人へ気を回して
気疲れしたりしていたけれども。

母が死んで次の日から、葬儀まで1週間もあったので、
父と弟夫婦と一緒に猛然と母の不要なものを片付け、
手続きをし、毎日母にお線香をあげに来てくれる誰かとお茶を飲み、お酒を飲み、
和歌山に戻ったら、もう母が死んでから初めての母の日がこの週末にやってくるという。
あっという間な時間の経過にびっくりしています。

母がまだベッドから立ち上がれた4月の最初に
マタニティヨガのWSにかこつけて、実家に1週間帰っていられたし、
母が状態が悪くなってからも、急いで実家に帰って、母の息を引き取る瞬間まで
家族でベッドを囲んで、看させてもらえたし、
ガンもボコボコと体の表面にも出てきていて、
母の栄養も血もみんな吸い取っているようだったので
母が息を引き取ったときは、楽になれてよかったねと本当に思えたし。

小さな後悔はあるけど、それほどに大きな後悔はなく
送らせてくれたのは、やっぱり母の愛でしょうか。

さっき、NHKの私のお気に入りのあさイチが「母ロス」を特集していたので
触発されて、私も吐き出す気持ちになれました。

同情して欲しいわけでも、一緒に悲しんでもらいたいわけでも、解決して欲しいわけでも
まとめて欲しいわけでもなくて、聞いて欲しい気持ちに今、なりました。

大好きな自慢の母が亡くなって、亡くなるってわかっていたからビックリはしてないけども
今、ちょっと母の話しを聞いてもらいたくなったので、どばっと吐き出してみました。
困ったとこも、嫌だなって思うとこもあったけど、やっぱり、私は母が好きだったみたい。

聞いてくれてありがとうございます。
母はそんなに自分の話をしない人で、友達付き合いも上手じゃなくて
私が知ってる母の友達って言える友達は1人しかいなくて、そんな母ですが、
今はたぶん天国へ向かう虹の橋で愛犬ピッチと久しぶりに会えているはずなんです。

お母さん、ありがとうね。産んでもらったこと育ててもらったこと。
お母さんにしてもらったことを、お母さんにむかついたことやされて嫌だったことに上書きして、大事にします。
なかなか、素直にありがとうをたくさん言えてなかったけれども。

そして、今も素直にさみしいと言えませんけども。
なんか、さみしいとか言ったら負けな気がして。
でも、やっぱりさみしいです。

だけども、私は今一人じゃなくて、仕事もあって仲間も友達もいるから
どうぞ、心配はせずにがんから解放されて楽になった自分を楽しんでください。
また、そのうちに私がもういいやってほどこっちで生きたらそっちに行きますね。
またね~。








時間があるということ [がんと生きる]

東京の実家へ帰京して
久しぶりに親と過ごしてきました。

今回は外へ夜出かけるのは1回だけで
あとは毎日夕ご飯を一緒に食べてきたのですが、
私が帰る前日は、私が好きだからと
母が「けんちん汁」を作ってくれました。

母は今年、初発の卵巣がんがステージⅢCで見つかってから
15年をすぎて、16年目を迎えています。

再発時に手術で腫瘍を取り、人工肛門と人工膀胱にしましたが、
その人工肛門と人工膀胱は、精神的に認知症様状態まで
追い詰められるほどのうつの原因にもなりました。

家族として、私にも
人工肛門と人工膀胱に振り回されている母を見ていて
この手術が必要であったのか。
人の生きる質って何か。
生きることが苦しみになることもあること。
なんて、いろんなことを考えたし、ため息ばっかりついていた時期もありました。

だけれども、母は奇跡的にうつ状態を脱し、
認知症が改善したのか、認知症自体が診断ミスだったのか
薬は今も継続中ですが、精神的には以前の母になりました。
私も以前の母にまた会うことができ、
ちょっとだけだけど、一緒に温泉に行ったり親孝行のようなこともできました。

今、母のがんは目に見え、皮膚の上から触ることもでき、
それに伴って痛みも感じるようになってきましたが
排泄を人工肛門、人工膀胱からできるために
今はまだ腸閉塞にならずに食事をとることができています。

今になってみれば、あの手術を受けてくれたお陰で
苦しい時期もあったけれども、私たちは母と過ごす時間を
「おまけ」みたく持つことができました。

母は2度の手術、半年間の抗がん剤治療3回を受けてその間、
自分の子どもの結婚式にも出席できたし、
弟夫婦の子ども2人の孫にも会うことができました。

2年前に、私は山の事故で友達を突然に失くしているので
母のように「いつか」を身近に感じつつも、共に生きていけるという意味で
がんには「時間がある」という気がしています。

もちろん、ピンピンころりと
さよならできるのは、ある程度の年齢を得たら理想でしょうが、
残されるほうの家族にも自分にも「やり残しがいっぱいある」と
いう状態であったなら、「がん」はまだ時間があるんじゃないかと。

いつかは、誰でも別れていくものですし。

今は、朝起きれた。何か食べられた。夜寝れた。
その繰り返しでいいじゃん。と、思えるようになりました。
それができることが、もう既にすごいこと。

私の感情だからでっかい揺れ戻しがあるかもしれないけれども
今は、そう感じています。
今回の里帰りでは、母から着物の半襟のつけ方も教えてもらってきたし、
母が縫った着物を着て、それを見せて、母の作品たちがタンスの肥やしでなく
日常の中でキラキラと私に喜びをくれていることを見せていこうと思います。

私ができることってそれぐらい。

こんな気持ちになれる日が今あること。それにも感謝したい。そう思います。
私が苦しかったような日々に今身を置いている人に、あのときの私に
この今の私の気持ちを伝えたくて仕方ないです。

どうか、日だまりに出られますように。

やったぜよ [がんと生きる]

今日は、私、ひとつ乗り越えられました。
たぶん。

今日は母、約1年ぶりに訪問診療で
外科の先生に再発しているガンをチェックしてもらう日でした。

股関節のところに去年の3月頃に発見したグリグリ。
がんの再発だろうということで、MRIは撮影し、
診断も再発ということで受けたのですが、

治療はせずに経過観察を続けており、
今回はそれによって食べられないという部位でもないので

「歩けなくなる前に」
と、旅行にでる気力もあったので
なんとなく気にしながら付き合ってきたのですが

やはり、1年前と比べて大きくなっているということで
かかりつけの医師と連絡をとっておいて、
万が一とか、痛みが出たときに備えるために
弟が手配をして、訪問診察を受けることになりました。

でね、診察内容がおきに召さなかったようで
「Drがこれは骨じゃないか」って言ったのよ。とご立腹。

今まででしたら、
私ここでどなってました。
「何言ってるのよ」
「医者に不満があるなら病院に行けばいいじゃない」
「私にそんなこと言われたって何もできないわよ」

などなど、言ってたでしょうね。

今回、
やはり母の話を聞いてものすごいイライラした気持ちになりました。
でも、
なぜ私がイライラするかを分析。

そりゃ、母が心配なんですわ。
歩けなくなるのかな、とか。
あと、診察に私も立ち会えていたら口添えできたのかな、とか。
最近はお正月前に帰っただけだし。とか。

結局、母が心配と同時に自分が責められている気がする。
それでイライラ。

今日のスカイプは状態が悪くて顔が映らないので
ちょっと深呼吸を入れて

怒鳴らずにすみました。

「Drがすぐに対応が必要と思うほどに状態が悪くなかったんじゃない」
「先生の診察が気に入らないのも、自分がしっかり診てもらえてない
って気分になるのもわかるよ」
「今度は納得がいくように、自分の体の心配な部分を書いておけば」

なんて返事をするに留まった!!
たぶん、私のイラっとした気分は伝わっていると思いますが。

でも、叫んだり泣いたりせずにも済んだし。
「またね」って言ってスカイプ切れたし。

何より、今、怒鳴らなかった自分が誇らしい。

成長したよ~私。

ありがたい [がんと生きる]

この連休は、東京から父と母に来てもらい、京都と奈良へ行ってきました。
母はがんを抱えながらですが、この旅行も無事に楽しんでくれました。

おかげで私も自分の満足ですが、親孝行がさせてもらえました。

父にとっては、修学旅行以来の京都、奈良。
修学旅行のときは、薬師寺の塔は東塔だけが建っていて
西塔は柱の跡しか残っていなかったそうですが、
それが今は西塔が建っていて、東塔は修繕中。

時の流れを感じておりました。

さて、薬師寺の金堂を拝観していると
「これからお話がございまーす」と、席に案内され
お坊さんからお話を聞くことができました。

お釈迦様がお弟子さんにしたお話で、

真ん中に穴の開いた一枚の板切れが海にぷかぷか浮いている。
千年に一度水面に顔を出して呼吸をする大きな亀が海にいる。

その海亀が顔を出しに水面に上がったときに、
海原をぷかぷか漂う板切れにあいた穴から顔を出すことはあるだろうか。

こう問われた弟子は、「それは有り得ない」と応えたそうです。

お釈迦様は、そのぐらい有り得ない巡り会わせで
今、あなたはその人として生きているのですよ。
と、説かれたと。

有ることが難しいことが、起きているから
有難いと感謝の気持ちを持つ。

有難い巡りあわせが、仕合せである。

ここで、たまたま話を聞いていただけたことも
有難い巡りあわせで、私にとって仕合せなことです。

家族となった、友人となった知り合ったその出会いも
仕合せな有難い巡りあわせです。

素直に手のひらを合わせて有難いという思いを伝えましょうと。
ここで、ひねくれて手の甲同士を合わせると指の節同士が合って
ふしあわせ(笑)になりますよ。


このお話で、私はちょっと泣きそうでした。
おかげでとても素直に父母にも感謝を伝えられたし、
あとから合流してくれた夫にも感謝があふれてくるようでした。

感激しても日々の暮らしで、慣れて当たり前になってしまうけども
面倒に感じたりもするけれども、たまにはこうやって改めて感謝するっていいですね。

私がこうしていられる仕合せも有難いことであふれています。
悩めることも幸せ。
面倒に思えることも幸せ。

あ~、幸せでおなかがいっぱいです。

うなぎ [がんと生きる]

14時20分発の飛行機に乗るのに
空港に着いたのが13時50分でした。

でも、無事に?母を送り届けて
私の親孝行させてもらえる1週間が終了です。

時間にギリギリになるのは、いつものことと、言って
家を出発する時間が予定より20分近くおしてしまったのに
怒らずに高速を安定して運転してくれた旦那さまにも大感謝。

今回、
母は1回は宿坊のお風呂
3回はうちの周辺の温泉と
お風呂三昧してもらいました。

実はこれはすごいことなんです。

母は内部障害ですが、大腸と膀胱の一部を摘出しているので
便と尿の排泄は、自分の腸をオナカから出して作った人工肛門と
人工尿道からしているのです。

それをストーマというのですが、
そこから排泄物は常に排泄するようになってるので、そこに装具をつけて
尿や便を一時的に装具のビニールに溜めて、
そこからトイレで排泄する。という方法をとっています。

つまり、裸になっても、オナカにビニール袋が2つくっついているんです。

あんまりそういう人って見たことないですよね。
オナカに手術跡がある人は結構いると思いますが、
ビニールがついてるのは珍しいと思います。

母は、とても外見を気にする人なので、
ストーマを受け入れるのにもとてもとても時間がかかりました。
精神を病むほどにです。

今は、ようやくちょっと慣れてきたのかな。
今回の旅行では温泉に入ってほしかったので、
ストーマの人が装具を通常のものを着けたままで
温泉を楽しめるように開発された
大きな絆創膏のようなシートを準備して
それを着けて温泉に入ってもらいました。
これです。→湯ったりシートhttp://homepage2.nifty.com/my-care/

これがね、便利でした。
お風呂用の装具に取り替えなくてもいいので、
お風呂に入るときもでてからもラクチンでした。

シートは1枚約1000円で高いのですが、
母はダブルストーマなので、1回の入浴でシート2枚使うから2000円。
1回2000円ってちょっと高い入浴料ではあるけれども

温泉に入れるっていうのはプライスレス!

本当に、今年の1月まで入院してたことを考えても奇跡です。

親孝行?っていうか、私に「親孝行した!」って満足感を与えてくれて
母に感謝。

そして、嫁の母の1週間の滞在を快くOKしてくれて
仕事休んで高野山に連れて行ってくれた旦那さんにも感謝。

この感謝を忘れずに梅採りがんばりま~す。

unagi.jpg

母とうなぎ定食も食べたし。
元気だしてこ~。


筋肉痛 [がんと生きる]

東京から母に来てもらっています。
すごい!!

去年の今頃は、精神科病棟で拘束されていた人が!!

母を連れて、夫の協力も得て(運転してくれました)、高野山の宿坊にも泊まれたし、
下界(笑)に降りてきてからも、夫の実家、私の気に入っているご飯屋さん、温泉と
母を連れまわしたのですが、、、

今朝から筋肉痛で激痛だそうです。

ああ、やりすぎた。

先々週は、尿路感染で高熱が出て寝付いてたし
普段から家の近所をちょっと散歩するぐらいだったのに
今回は高野山では奥の院まで往復4キロほど歩いたし。。。

筋肉痛が遅くでるっていうけど、
母の筋肉痛はどこから?

今日は蛍を見せたいって思ってましたが、無理そうです。
仕方ないです。

なんか、私の親孝行は私のエゴですね。

喜んでくれるからと調子に乗ったけども、
相手の体調を思いやるべきだったわ。

歩くのも立ち上がるのも痛いみたいで、かわいそうなことになってます。

なるべく早く回復してくれますように。。

声を上げること [がんと生きる]

今日も風が冷たいです。
洗濯物をさっさと干して、家の中にはいりたくて
夫の作業ズボンを洗濯バサミでとめておくのをうっかり忘れたら!!

隣の老人介護施設のひさしのとこまで飛んでいってしまいました。
ながーい竹竿を持って、とりにいったのですが届かず、
踏み台を借りてやっとこさ引きとってきました。

その間の風の冷たいこと。

横着しないように気をつけます。


今朝は、あさイチで「ドラッグラグ」について特集していました。
解説していた医師の方が、
「海外で使用実績があるが、国内では保険適応されない薬を
個人輸入で使用するのは、患者への経済的負担が大きい。」
「寄付を集めた基金を作って、費用を肩代わりして、患者が使えるようにするのが
ドラッグラグを解決する一番の早道だ。」
と、いうようなことをおっしゃっていました。

そうなんだーっと、ちょっとがっかり。

個人輸入すると、1ヶ月分の薬代が30万円とか、100万円とかかかる。
保険を使えるように医薬品として適応されれば、患者の自己負担は減る。

寄付をつのって、その寄付で患者個人の自己負担分を補助しては?
というのは、どうなんだろうか。

その寄付の募集、管理、配分は誰がやるのか?
献血と同じように、人々の善意によって運営していくものなのか??

外資の製薬会社の人が、日本の医師は英語ができないから、臨床検査がやりにくい。
患者の協力も得にくい。コストがかかりすぎると言っていた。

会社組織なので、利益追求になる。コストがかかるわりにマーケットがせまくて
利益が見込めないから、日本での承認を求めることもしない。


このままだと、私たちは日本から出ない限り保険制度によって、
医療費の負担は、他国と比べて少ないけども医療の質は半世紀前のもの。

お金があって、最新の治療を受けたければ他国へ行く。
そんな国になりつつあるきがします。

今、幸いに私自身は痛いとかかゆいとかないけれども
母は標準治療の抗がん剤にアレルギーが出てしまったし、
新薬(海外では既存薬)を待ち望む患者さんもたくさんいる。

どんなふうに声をあげたらいいのでしょうねー。




先日、去年の暮れに、母の状態が手に余ると、オストメイトの患者会に相談をして
母と同じようにがんの手術の際に、ダブルストーマになった方を紹介していただき、
その方とお会いする機会を得ました。

私たちと違って、母の訴える「辛い」「いやだ」という気持ちを
ご自身も持っているからと、
なんと!3時間も母の「辛い」「いやだ」「どうしよう」
にお付き合いくださいました。

しかも、「これからもお付き合いしていきましょう。
私たちは同じものを持っている仲間なんですよ。」と、おっしゃってくださいました。

助けて~!と声を上げたら、助けてくれる人がいた。

本当にありがたいです。
母の状態はあいかわらずだけど、
そこまで母を受け止めてくれる人がいることが私にとっては希望です。


そして、声を上げたことで助けてもらっているからこそ、声を上げてる人を助けたいのだけれど。
私にできることが何かわからないので、ちっちゃいけれどブログに書いてみました。

誰か、何か準備してくれ!そしたら乗っかるから。
と、いうせこい私なのですが。












求めたらば与えられる [がんと生きる]

東京から昨日戻りました。
しかも!18時に最寄り駅に到着してそのままバイト先の英会話レッスンに直行。
レッスンを2本やらせていただきました。

迎えに来てくれた夫と夕ご飯は外食しちゃいました。


今回、東京に戻ったらば、母の不安定な様子を目の当たりに。
自分の障がいを受け入れられずに苦しんでいる母に
「変わってくれ」「受け入れてくれ」と

苦しまないで欲しいから、ひたすらに言い続けて過ごしてしまいました。

ですが、「ストマじゃない人に私の気持ちはわからない」と言われたので
ストマを持つ人たちの集まりに連絡をさせていただき、
母の状況を説明し、ストマを持つ人を紹介していただけないかお願いしたところ

突然のお願いにも関わらず、紹介していただけました。

私が帰宅する日だったのですが、
その方は、電話をさせていただいたら、母ともしばらく話してくれて、
私とも話してくれて、来年にはお会いしようとお約束もいただきました。

しかも!オストミー協会の方で、母が一番気にしているトイレ問題に対して
画期的な新商品が出たことも教えてくださいました。

求めたら与えられた。

私が最初にコンタクトをとった方も、
その方に紹介された方も
どうして見も知らずの私たちにそこまで心を砕いてくださるのだろうと
思うほどに親身になって対応していただいて、胸がいっぱいになりました。


また、母に対して「受け入れてくれ」「変わってくれ」というのは酷であること。
終わりのないトンネルはないこと。
ご自身も向き合ってきた苦しみであることをお話くださって

私にとっては、先に希望を感じられる出会いになりました。

母にとっては、まだまだ遠いことのようですが、
いつか母がトンネルの出口に立って、
トンネルの中でもがいてる人に、トンネルの出口を示せるようになるかもしれない。


そんな出会いのあとですもの、
緊急でのピンチヒッターで英会話のレッスンを代講するぐらい
私にできることで助かる人がいるならやらせていただかなくっちゃ。

と、冒頭の電車を降りて即レッスンにつながりました。


今日は家を片付けて、布団も干して、いま一息。
また夕方から英会話レッスン、ヨガレッスンと続きます。

うれしい出会いに感謝を忘れずに私にできることをやっていこう。

朝焼け2.jpg

朝焼け1.jpg

今朝起きて、カーテンを開けたらこんな朝焼けでした。
6時に起きた眠い目にうれしい景色でした。

また、赤ちゃんに出会える日が先にのびた朝でしたが
今日はとっても心が軽やかです。


さ、また気持ちよく生きていこー。

節目 [がんと生きる]

ついに、後厄からも抜ける年齢になりました。
今年は、車もぶつけてないし、このまま大人しく来年を待ちたいと思います。

先週まで、母の支配からの独立を掲げておりました。
が、しかし。。。

さあ、今までに私がどれだけ被害にあったか羅列するぞ、と勢い込んでみたとこで

母から押さえつけられた部分もあったけども、
今まで育ってきたのは母が世話をしてくれていたからだということにも
思い至りました。

そこにきて、
何気なくみていたバラエティ番組でがん患者のPTSDについて話されているのを聞いて
んん?とひっかかり、

更にがんセンターの論文をネットで見つけて流し読みして
んんん?とひっかかり、



私のするべきことは、母から独立すること、母を自立させることよりも

ちょっとは臨床心理もかじったんだし、
家族への治療的アプローチは自分がコントロールできなくて
本当に辛いけれども

母の中にある、点滴栄養しかとれなかった10ヶ月。
常に死の恐怖にさらされ続けたつらい入院体験。
それによって常に不安感がなくならないこと。
感情も恐怖ばかりが先立つこと。
手術により、体の機能が失われたこと。

などの感情を「でも」「だけど」「どうして」などの反論言葉を使わずに聞くことなのかも。
と、思いました。

名づけて、太陽作戦です。
ちょうど、今ピンチヒッターで行っている英語のバイトでも
幼稚園の子達に「太陽と北風」の本を読んでるところだし。



今までも、母のこと考えてきたし、いろんなラベルを貼りました。
「うつ」「認知症」とか、ね。

がんが再再発する前の母をすぐに思い出せないほどに
周囲にいる人を不安に巻き込むほどに大きな不安に常にとり付かれている母。
その状況は、ふつうとは思えないので、病名というラベルを貼って、
一応の理解をしたいと思うから、ついラベルを貼るのですが、

今度またがん患者のPTSDにラベルをとりかえて接してみようと思います。
私は、ずるいけど、実家と距離がある分、家族とはいえ、治療的アプローチができるかも。どうかな。



がん患者ではないけれど、PTSDの患者さんが言われて辛い思いをした言葉
と、いうのをネットで発表してたのですが、

全部思い当たる。
全部言ってきた。

「あなただけじゃない」
「こんなに元気にしてる人もいる」
「もっと困ってる人もいる」
「気にするな」
「それしか考えられないの?」

などなど。

私が母に今まで言われて地味に傷ついてきた!と主張するよりも
がん治療を通じて、ボロボロになっている母に対して、
励ましという見た目には間違っていない、正しいと思われる行為で
どれだけ母を傷つけ続けてきているのか。。。

おそろしくなりました。


さあ、ブログで言ったからにはです。
母の言葉を反論せずに、こないだベビマをしてる方の言っていた「ピンクゴールド」のオーラ
を出しながら、どれだけ受容できるのか。

やってみます。

昨日もね、電話口でピンクゴールドをひたすらイメージしながら
母と話したのですが、まずは私の気持ちが楽でした。
「また!そんなこと言ってるの!」って、責める気持ちでいるより全然よかった。

今日も続けます。
やってみます。



生きているならば、笑顔が多いほうがいい。



やってみます。



東京行き [がんと生きる]

11月のあたまに東京に行くことにしました。
私が大学4年生で卒論の実験に追われていたちょうど今頃、
母のガンが判明し、手術・治療を受け、その後5年ほど無治療の期間があって
4年前に再発が判明し、投薬と手術を終えて退院してから3年。

最初のガン治療から10年たって、今回の再発。

卵巣がんという生存率が悪いといわれいるがんにしては、だいぶ大人しくしてくれていました。
それに再発後は、がんよりも精神的な不安との戦いのほうが辛かったです。

今回、また目に見える「がん」を治療する日々が始まることになり
目に見えるものをやっつけることは簡単という気がしています。

和歌山に暮らしていることで、今回の母の治療に以前のようにつきっきりでいることはできません。
辛いことがわかっている治療のスタート時ぐらい付き合いたいと思います。
自分の中の満足にしかならないかもしれませんが。

がんの投薬治療で2度、無治療の期間を得た母です。
今回もなんとかしてくれる。そう思っています。

もっとうれしいことで東京に帰ったりしたいとこですが。
励ますことで励まされに戻ります。

こっちのおいしいもの、もって行かなくちゃ。

10年。いろんんことがあり、いろんな変化がありました。
あのとき、辛かった治療を母が受けてくれたことで
一緒にいられる時間を持つことができました。

これからの時間もまだ母にいてもらいたい。

元気なときは、うっとうしくもある親ですが、
元気な親はありがたいものです。
親が元気でいてくれてこそ、自分がのびのびできるし!

頑張ってもらうために頑張ろう。
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